迂闊なのは今にはじまったことじゃないんですけどね。
(thespian city)
どうやら恋をしちゃったらしいのである。
そして、どうやらそれは叶わぬ恋らしいのである。
なにせわたしに淡い恋心を抱かせた相手はとんでもない柄のスカーフを巻いているのだ、
毎日毎日違うスカーフを巻いているような、とんでもないお洒落さんなのだ。
それだけでもうブロークンハートが約束されているような気がするのに、
さらに悲しいことに、スカーフ巻き巻きの彼はいわゆる教師であり、
わたしはいわゆる生徒なのだ。これはもう悲しいを通り越して悲劇的だ。
「はあ……」
やつが教鞭をとる授業の真っ最中、
『トリスタンとイゾルデ』のビデオ鑑賞会が開かれている音楽室は、
恋煩って溜め息をつこうがヒステリックにリコーダを吹き鳴らそうが
全然問題ないぐらい大音量のソプラノが響いている。
だからわたしの溜め息なんか誰も聞いてないだろうと思ってたのに、
どこにでも耳ざといやつはいるものだ。
「どうしたの? なんかが溜め息ついてると、そろそろ地球も終わりかなあって気になるよね」
「溜め息ついたくらいで終わる地球なら、心置きなく終わらせてやるわよ」
隣に座るキューティクルボーイとは滝のことだ。
せめてわたしに滝の髪があれば、メデューサのごとく少しばかり乱暴な手口で
恋を成就させられたかもしれない。もう一度溜め息をつくと、
礼儀のなっていない滝はものすごく呆れたような顔をした。
「勝手に終わらせないでよ。なに? でも悩みとかあるの?」
「滝に話すような悩みはひとつもございません」
「うわあ、失礼なこと言うね」
「どっちのほうが失礼よ。だいたい『優しくかすかな彼の微笑み』ってなに?
むかつくったらありゃしないわ」
授業のはじめに配られたプリントにそう書いてあるのだ。
《ワグナー作/トリスタンとイゾルデ/第三幕/イゾルデの愛の死『優しくかすかな彼の微笑み』》
……心中すら羨ましく思えるなんて、今日のわたしはどうかしてる。
「」
やる気なく机に突っ伏していると、
そう呼びかけてくる滝の声と机をこんこん叩く音が聞こえてくるものだから、
「授業が終わったら起こして」
と、ただそれだけを告げるために不承不承頭を持ちあげたのに、
滝は返事のひとつも寄越してくれない。それじゃあいったいなんのために、
ひとの名前を呼んだのか。ちょっと腹が立って、
わたしは気怠さを押しつつ滝の方へ病人みたいに上半身を反転させた。
「ねえ滝ってば……」
「」
「……はい」
ああ、滝はきっとこれを教えてくれようとしていたのだ。
突然背後から降ってきた声にびくっと身体を強張らせながら、
髪に隠れた横顔から憐れむような(それでいて面白がっているような)
視線をくれる滝をとりあえず睨みつけて、わたしはゆっくり振り返った。
だけどやつはわたしの名前を知っているのだ、
そんななんでもないことが、やけに悔しい気がする。
見上げれば今日のスカーフは適当にラッカーで彩色を施したみたいな、
藤色と菜花色のセンス溢れるマーブル模様をしていた。
臆面もなくこんなのを着けられるのは、世界広しといえどもたぶん
この音楽教師とジョン・ガリアーノだけだ。
「いまは寝る時間ではないはずだが?」
「……今日の先生も素敵ですね」
方便が半分、本音が半分。
精一杯大人びた微笑を浮かべたつもりだけれど、
やつにとっては馬鹿なガキにしか見えなかっただろうと思う。
だって瞳孔ひとつ動かしてはくれないのだ。
アホらしすぎる自分が可哀想で、ちょっとだけ泣きたくなった。
「放課後まで残っていなさい、補習だ」
よっぽどばっくれてやろうかと思った。
ワグナーは若い人妻(それも自分のパトロンの奥様だ)との不倫愛から、
この曲を生み出したそうだ。クラスメイトが全員いなくなってしまったあと、
二人きりでもう一度ビデオを見ているとき、やつがそう教えてくれた。
『すごい』とか『名曲』とか、プリントにいいかげんな感想を書きながら、
わたしはやっぱりぼうっとやつの方を窺ってしまう。いったいどうして、
こんな中年男を好きになってしまったんだろうか。
もう滝で良いじゃないか、高橋でも太田でも山本でも、
誰でも良いじゃないか、こいつでなければ。
「先生」
「なんだ、静かに見なさい」
「榊先生」
……ロリコンとかではないですか?
「なんだ」
「ちょっと呼んでみただけです」
これ以上口を開けば、余計なことを言ってしまいかねない。
だけどどんなに集中しろと言ったところで、そんなのとうてい無理な話で。
すごい、名曲、すごい、名曲、すごい、名曲、すごい、名曲、すごい、苦しい幼すぎる恋心。
ようやく幕が下りて、あたりは真っ暗なんじゃないかと思ったのに、
まだ夕暮れも姿を見せてはいなかった。
シャーペンを筆箱にしまって、わたしは立ち上がる。
「」
「なんですか?」
「授業は退屈か?」
「いいえ、そんなことはないです」
プリントを渡すとき、ろくに目も合わせることができなかった。
ほとんど逃げ出すようにして音楽室の扉に手を掛けたわたしのうしろで、
すこしだけ空気が揺れる。
「」
「なんですか?」
「呼んでみただけだ。気をつけて帰りなさい」
今度こそほんとうに、わたしは逃げ出した。
帰りがけテニスコートから手を振ってくる滝に、
やっとの思いで手を振りかえしたわたしの頭上には、マーブル模様の空が広がっていた。