お酒と煙草と香水の入り交じった、 お世辞にも綺麗とは言えない空気。
そのなかがあたしの主戦場なんでした。


01 Punky Bad Hip

 (Please Wait Until the World Ends, Baby)


「芽衣ちゃん、今日アフター行かない?」

また出た、唐沢さんお得意のアフター攻撃。 アフターアフター五月蠅いっつうの。 うんざりしてるのを気取られないようにっこり笑って、 あたしはLouis Vuittonの七万もしたシガレットケースに手を伸ばす。 最近ちょっと味が変わったMarlboroの赤。 誕生日祝いにってお客さんがくれたZippoで火を点けると、 非喫煙者の唐沢さんは微妙に顔を蹙めて、 それでもあたしの膝に置いた手はどかさない。

いつかセクハラで訴えっぞ、コラ。

「芽衣ちゃんってバーボン好きでしょ?  珍しいの揃ってる店知ってるよ」

「バーボンは好きだけど、あんたは嫌いだ」って 言えたらどんなに良いか。でもこないだ客と大喧嘩して以来、 黒服が接客中のあたしの一挙手一投足、 及び一言一句にまで目を光らせてて、 とてもじゃないけどそんなこと口にしたらあとが怖い。 怒られるだけならまだしも、罰金とか言われたらたまんないし。

夜の世界はなんだかんだで罰金天国。

「ってことは、今日は最後までいてくれるの?」
「最後って何時だっけ」
「んー、あと四時間ぐらいかな」

帰れー、帰れー、帰れー。 アフターなんてポイントになんないこと誰がするかっつの。 アフターで飲ませてくれる気があるんだったら、 いまここで飲ませてくれなきゃ「良い客」にはなれないって 知ってる? あたしはやんわり膝に置かれた手を押し退けて、 唐沢さんのグラスに氷を足した。

「四時間かァ……今月小遣い少なかったんだよね」

《16番・来栖芽衣ちゃん、来栖芽衣ちゃん、 ニッコリ7番テーブルよろしくー》

唐沢さんの声にかぶせるように、 けたたましいユーロビートに混じって、 ホール長のマイクコールが入る。 最初はこれが聞き取れなくて苦労したんだけど、 それも昔の話。この曜日のこの時間、しかも7番テーブルってことは、 たぶん榊さんだ。いっつも三時間はいてくれるし、 なんにもなくてもCafe de Paris下ろしてくれるし、 仕草から会話から紳士的だし、大好きなお客さんのひとり。

ホストクラブの経営者で、まえに同伴でお店に連れてっても らったときは、もう出てくるホストみんな榊さんには逆らえない ってかんじで、すごい体験をしてしまった。 うちの店もほんとは同業者とかホスト関係は出禁なんだけど、 榊さんはどうやらうちのオーナーの友人らしい。

あたしは短くなった煙草を灰皿に押し付けて、 名刺を一枚グラスのうえに置くと、 シガレットケースをヴァニティのなかに仕舞って、 唐沢さんの手をぎゅっと握った。

ほんとはそんなことしたくないんだけどね!

「この話はここで終わり。呼ばれちゃったから、 ちょっと行ってくる」

唐沢さんはなにか言いたそうにしてたけど、 そんなのに付き合ってる暇はない。 テーブルのうえのグラスを倒さないように気をつけて立ちあがると、 あたしは7番テーブルに向かって、 ミュールの足を進めていった。




「やっぱり榊さんだったんですね、こんばんは、 お変わりありませんか?」
「ああ、芽衣こそ元気だったか?」
「ええ、お陰様で」

ちょっと会釈をして榊さんの右隣に座った瞬間に、 LANVIN ARPEGE POUR HOMMEがふわりと香ってきて、 その上品さにちょっと嬉しくなった。そしてそれと同時に、 榊さんの奥に座ってるスーツ姿の男性に気がつく。

「そちらにいらっしゃるのはお友達ですか? 外国の方?」

そう尋ねると、葉巻を吸っているどこからどう見ても外国人な お連れさんは、楽しそうに笑って榊さんを見た。 そのあいだに、水割りを作るために空のグラスをふたつ並べたら、 榊さんの手がそれに氷を入れるのを制止する。 どうして止められるのかは分からなかったけど、 とりあえずはそれに従って、あたしは微笑みながら 榊さんの言葉を待った。

「古い友人でな、 イタリアから来たサルヴァトーレ・クァジモド氏だ」

「はじめまして、早川芽衣です」と、右手を差し出す。 あたしとしては握手するつもりだったんだけど、 クァジモドさんは人好きのする顔で、あたしの手の甲に恭しく 唇を落としてくれた。さすがイタリア人…… っていうのは偏見かもしれないけど。

「はじめまして。榊から話は聞いてたけど、想像以上だね」
「榊さんってばなんの話をしたんですか」
「安心しろ、悪いことは言ってない」
「信用しますからね」
「芽衣、大丈夫。榊は芽衣のこと、すごく褒めてた」
「それはそれは、ありがとうございます。クァジモドさん、 日本語お上手ですね。待っててくださいね、 いま女の子呼ぶので」

あたしがそう言って、手を挙げて「御願いしまーす」と 黒服を呼びかけたら、これもまた榊さんに制止される。 首を傾げながら黒服を元の場所に帰して、榊さんを見遣ると、 珍しいことに榊さんは微苦笑を浮かべていた。 榊さんの笑顔なんてレアだ。

「今日は、芽衣に話があって来たんだ」
「わたしに?」
「そう。芽衣、とりあえずシャンパーニュでも空けようよ。話はそれから」
「シャンパーニュ……Cafe de ParisかDom Perignonかどっちにします?」
「Dom Perignon大好きだよ。せっかくだからRoseにしようか」

事もなげにピンドンご指名のクァジモドさんに、 若干焦って榊さんに視線を移す。あたしはピンドン、 いろんな意味で大好きだけど、ここで飲んだらヴィンテージでも なんでもないのに三十万はするんだって、 クァジモドさんはご存じなんですか?……っていう視線。 そしたら榊さんは笑みをぐっと深めて、「構わん」と一言。 榊さんが連れて来たんだからお金持ちには違いないだろうけど、 まさかこんな月末にピンドンが入るなんて思ってなかった。 もしかしたら駆け込みで時給ぐんと上がるかもしれないなァ、 なんて思いながら、それじゃあと、 あたしは伝票にテーブル番号と名前、 それからDom Perignon Roseとわざわざ正式名称で綴って 黒服を呼んだ。

「芽衣はDom Perignon好きかい?」
「ふふっ、こういう場所で働いてる女の子は、 みんな大好きなんですよ」

黒服があたしの指先から伝票を攫っていく。 榊さんが取りだした煙草(Dunhillがまた似合うんだ!)に、 あたしはゆっくり火を近付けて、7番テーブルにだけ置いて ある榊さん専用の灰皿を準備した。 いくらお得意様だからって専用灰皿まであるってどうなの、 ってかんじだけども、そこはやっぱりオーナーの友だちなだけある。 たしか榊さんのホストクラブに行ったときも、 そこのNo.1くんが、奥から榊さん専用のBaccaratのグラスを 持ってきてくれたんだった。あのときは気分良かった。

「イタリアって行ったことないんですよ。良いところでしょう?」
「今度連れて行ってあげようか?」
「わたしとの旅行は高くつきますよー?」
「それは楽しみだな」

はははっとクァジモドさんが気持ち良く笑っているところに、 花柄のグラスボウルいっぱいの氷に埋まったピンドンが 運ばれてくる。さすがにBaccaratのグラスとまではいかないけれど、 普段カフェパのときに使うものとは比較にならないほど上品な シャンパングラスが、三つトレイに載っている。 給仕が行ったあと、クァジモドさんはボトルを嬉しそうに手にとって、 テーブルのうえに置いてあったおしぼりをボトルの口に宛がうと、 景気よくぽんっと蓋を外した。 お酒を注ぐのはあたしの役目だとクァジモドさんに告げると、 彼は「御願いするね」と言ってボトルを渡してくれる。

グラスに注ぐと、綺麗な色のDom Perignonはしゅわしゅわっと 泡を立てた。

「イタリアではグラスを合わせるとき、なんて言うんですか?」

グラスを榊さんとクァジモドさんに渡しながらそう尋ねると、 クァジモドさんはちょっと考えたあと、「"Salute!"って僕らは 言うね、『健康』っていう意味なんだ」と、にっこり微笑んだ。 あたしもつられて笑う。

「それじゃあ、今夜の素敵な出会いに感謝して」

"Salute!"とグラスを持ちあげて、あたしたちはグラスに口付けた。




→第二話