十日だ。
あの人が目を合わせてくれなくなってから。
そして同時にそれは。
指輪の存在が。
自分の中で膨張してきた日数でもある。


 40 Here ; Sick for You


当て付けだとか、そういった駆け引き的なことではないのだろう。
あの人のことだから。
もしもあの人の振る舞いを、当て付けのように感じているのなら。
それは俺がどれほど苛立っているかの確証でもあり。
苛立ったところで手立てがない。

跡部さんほど気が回るわけでもなければ。
滝さんほど気が利くわけでもないのだから。
避けて廻るより他に、やりようがなく。

今日もまた、日の当たらない場所を行ったり来たり。
聞こえてくる足音に、アンビバレントな感情が、芽生える。

「日吉くん、ちゃん見なかったー?」

それがあの人ではなかったことに、がっかりしているのか、ほっとしているのか。
自分でもよく分からない。

『俺の周り以外を探せばいいんじゃないですか』、と。

背後にいた千石さんに思わずそんな台詞が漏れそうになった。

「見てないですよ」
「そっか。何処行っちゃったんだろうな・・・ありがとう!」

遠ざかっていくオレンジ色の髪を見つめながら。
たとえばあの人が千石さんと並んで座っていることや。
たとえばあの人が観月さんと楽しそうにしていることや。
たとえばあの人が亜久津さんと隠れて煙草を吸っていることや。
鮮明に甦らせることが出来る光景はまるで責め苦のようで。
自分で思っている以上に、俺はさんを見ている。

意外でも何でもない、それは、当たり前のことだ。
当たり前であればあるほど腹立たしさを覚えるということを。
誰か分かってくれる人は居るのだろうか。

誰か、なんかじゃなく。
さんが分かってくれれば、それでいいのだけれど。

傍にいてくれないだけで、歯車が噛み違ってしまうような気がする。
軽い疲労感に襲われて、水の音に誘われるように。





此処には幾つか泉のあることを、歩き回っている内に知った。
たいてい人も訪れないし、水を見ているとある程度落ち着くから。
今だって、一人で足を休めるはずだったのだ。
視界を遮るものなど何もないのに、目を凝らしてしまったのは。

白昼夢の中にでも迷い込んだんじゃないか。

そう、ほんの一瞬だけ考えてしまった所為だ。
泉に差し込んだ手を戯れに揺らしている女の人。
彼女を、見たことがないと思った所為だ。
どうしようか、引き返すべきか、留まるべきか。

なんだってさんがこんな所に居るんだ。

そんな逡巡の間にその人は此方を向いて。
ぎこちなく微笑んだから、混乱がますます増幅し始める。

「誰かと思えば、ピヨじゃない」
「誰なら良かったんですか」

彼女があまりに自然に言葉を紡ぐことに、少しイラっとさせられ。
俺は考えることを放棄することに。

「んー、たぶんピヨがいちばんかな。話もしたいと思ってたし」
「話したいって、貴女が避けてたんじゃないですか」
「そう、かも?」
「そうですよ」
「ごめん。なんか、どんな顔して会えばいいのかずっと考えてて」
「それはこっちの台詞です」

驚いたように目を見開いたさんを放って、泉の囲いの上に腰を下ろす。

なにも驚かれるようなことを言ったつもりはない。
それに、避けていたのは実は俺だって同じことで。

さんはしばらくぼけっとあらぬ方を眺めていたけれど、
ようやく気付いたふうに俺を見つめて、隣に座ろうとした。

「座るんですか」
「え?いや、ピヨが立ってろって言うなら立ってますけども・・・
「そんなこと言いません。ただ、服汚れるでしょう」

旅の間中、幾ら汚れても構わない旅着を纏っていたから。
すとんと地面に流れ落ちる真っ白なドレスは汚して欲しくない。
あまりにも綺麗で、似合っていたから、汚して欲しくない。

「うわあ、ちょっと喋らない内に紳士になっちゃって」
「それは厭味だと受け取って構わないんですか」
「まさか!褒めてるの!ね、だからピヨのお膝に・・・」
「お断りします」
「まだ最後まで言ってないじゃん!」
「どうせろくなこと言わないですから、さん」

この人の思考回路が全くもって分からない。
この人だけじゃなく、他の人間のそれだって分からないけれど。
考えていることを知りたいなんて無理な願いは持ってない、としても。

気持ちが知りたい、さんの、俺に対する気持ちが。

跡部さんのことが好きなんだろうなと、漠然とした予想はある。
跡部さんがこの人のことを溺愛しているのは傍目からも明らかで。
この人から跡部さんに向けられる目は信頼の色を多分に帯びている。

邪魔など出来るわけがなく。

邪魔をしてやろうと思えるほど薄弱な繋がりではなく。
立たせっぱなしも気の毒だからと、持っていたハンカチを泉の淵に敷く。

「どうぞ。何もないよりマシです」
「ありがと。今日のピヨはちょっと変だわ」
「心配しなくても、さんはいつも変ですよ」
「そんなことないよ」

彼女が隣に座った瞬間、ふわり花と煙草の入り交じった匂いが嗅覚を掠める。
良い匂いなのか、判断が付きかねる。
俺はもうこの人を、客観的に見つめることが出来なくなってる。


こまった人だと思う。
やさしい人だと思う。
むかつく人だと思う。
かわいい人だと思う。


だから嫌いになんかなれずに。
どうすればいいのかがわからない。
俺のことだけ見ていて欲しいなんて、口が裂けても言えることじゃない。

からからと、これは木の葉の舞う音だろうか。

「その髪、どうしたんですか」
「萩が結ってくれたの。意味分かんないんだよ。
 一昨日はポンパドール夫人風?
 とかで、昨日はアールなんとか風で、今日のこれは
 ・・・なんだっけ、さばてぃえ風?」
「十九世紀のフランスの人ですよ、アポロニ・サバティエは」
「へえ。よく知ってるね」

何かで読んだことがあるように思う。
そうか、でも、滝さんが毎日。
さんの姿を見る折々に、どうしたのかと訝ってはいたのだけれど。


「似合ってますよ」


「え、ええ!?」


突然の大声に驚いて視線を馳せると。
さんはぱくぱくと空気の中を喘いでいて。

「その間抜け面をやめてください」
「・・・・・・・・」
「いったいなんなんですか」
「いやいやいやいや、こっちが聞きたいよ!なに!?ピヨ、熱でもあるの!?」
「至って健康です」

・・・何を言い出すんだ、この人は。
俺が何かまずいことでも言ったんだろうか。

言ってない、と思う。

「やっぱり今日のピヨはおかしい」
「だとしたら、しばらくの内に話し方を忘れたんですよ」

そうだ、前にどんな会話をしていたかとか。
さんがどんな風に接してくれていたかとか。
覚えていられずに、どんどん新しい記憶に上書きされていく。
そして俺は、それを、望んでいる。

「ごめんね。なんか嫌われてたらどうしようとか思って、つい避けちゃって」
「どうして俺が貴女を嫌わなくちゃいけないんですか」
「さあ?理由なんかいっぱいあるでしょ」

言われて、一応は考えてみるけれど。
さん曰く『いっぱいある』はずの理由は、ひとつも見つからずに。
この人のディテールに愛おしいと思う箇所はたくさんある。
それでもディテールはさんその人ではないし。

さんその人をこんなふうに想って居る以上。
嫌いな箇所を探せというのが、まず無理だ。

それにしても

「俺の方こそ、そうですよ」
「え?」
「俺の方こそ、貴女が避けるから、嫌われてるのかと思ってました」


「わけ分かんない。あたしがピヨのこと嫌いなわけないじゃない」


「何か言いましたか」
「あたしがピヨのこと嫌いなわけない、って言った」
「・・・そうなんですか」
「そうだよ。一週間ぐらい避けてたからって、どうしてそうなるかなー」

さんはふうと溜め息を吐いて、肩を落とす。
その仕草も、何もかも、何故か滑稽に感じて。

「一週間じゃありません。十日です」

十日間、胸を渦巻いていた恐怖が束の間の晴れ間を見せたような気がした。

「細かいね」
「根に持つ方なんで」
「ふむ。知らなかった」
「じゃあ知らなくていいですよ。さんには適用しませんから」

帰れないのなら、ずっとロリアンに留まっていたいと、強く願った。





けれど時は移ろい。