何か精神的なことで。
眠れなくなるなんて。
あたしには一生有り得ないことかと思ってた。
有り得ない方が。
ずっと良い。


 43 The Last Night Round a Fire...


ロリアンを出て九日目の夜も更けて。
地理的なことはなにも頭に入ってないにせよ。
上陸がもう、そう遠くないことなのは分かる。

亮ちゃんはどうするのだろうか。

気に掛けなきゃいけないはずのそれを顧みる時間は、一日の内のごく僅かで。
ほんとなら今すぐにでも行って欲しいと、みんなから離れて欲しいと。
利己的なことを考えてしまう自分自身を。
是認する余裕も咎める余裕も、すでに残っていなくて。
対象の定まらない憎悪ばかりが心に燻る。

ずっとロリアンに居られればよかったのに。
なにもかもが消耗してしまうより、消耗もせず回復もせず。
時折辛い事実を突きつけられるような。
薄い油膜に漂う感覚にも似たそれが。
あたしが狂おしいほど必要に感じているもの。

生傷だらけで海に沈むなんて耐えられることじゃない。
鮫は傷を負っても海中を泳いでいるけれど。

こんなにもみんなは静かに眠るんだったっけ。

それとも。

あたしは一人で此処に居るんだっけ。

それも良いかもしれない、その方が良いかもしれない。
いつか浮上するのを待っていられるかどうか。
オッズの出ない賭けをするようなものだから。

夜が途方もない果てまで続いているような気がして。
隣にいる子(誰だか分からない)を起こさないようそっと身体を持ち上げた。

枕元に置いた荷物の中に、まだ煙草が残ってるはず。
あっくんが別れ際にくれたのは、やっぱり煙草で。
三箱だけの煙草、大切に吸っていたはずなのに。
気が付けばもう、最後の一箱すら半分以上が空白になってしまってる。

見張りに立っている萩に出来るだけの笑顔を向けて。
みんなから少し離れたところ、岩陰に、崩れるように座り込んだ。

身体に毛布を巻き付けて、マッチを擦るけれども。
火がつく前に折れて、また折れて。
ようやく点った炎はいかにも頼りない。

『フィルター部は土に還りません』
なんて喫煙者にとっては聞き慣れた警告文で。
左様で御座いますか、それじゃあ吸い殻は焚き火にくべることに致します。

他のたくさんの事柄を忘れてしまっても。
そんなことだけはちゃんと思い起こせる脳髄が恨めしい。





しっかりしなくちゃいけない。
忘れちゃいけないことを、忘れようとしないで。





一本吸うのに、いつもの倍くらい時間が過ぎて。
なんだか頭がくらくらする。

このまま眠ってしまいたい気がする、ずっとずっと。

お話の内容を知っていて良かったと、どうして思えないのだろう。
若が死んでしまうのを防ぐ自信がないから?
自信を絶対的な支えに出来るのは、架空の人もしくは偉人変人くらいで。
徹底的な自信、完全な自信、そんなの持ちようがない。

自分の死なら笑って済ませられそうな気がするのに。
好きな人、尊敬する人、大切な人。
そういう人を亡くしてしまうと。
たとえ享年90歳とか、そんなのでも。
『早すぎる』と、我が儘もいいとこな憤りを何かに対して感じてしまう。

拠り所をなくしたような気分に、なるからかもしれない。

指輪だけ、此処に捨てて、みんなで逃げ出したい。
そうしたら、帰れなくなるかもしれないけれど。





冷え込みが一層厳しくなって、毛布を握りしめた。



ゆっくり首をひねると、萩が至近距離にしゃがみ込んでいて。
顔は暗くてよく見えないけれど。
色のない、抑え付けられた声。

「なに?どうしたの?」
「もう見張り、交代の時間なんだ」
「早いね、そんなに時間経っちゃってたの?」

何気なく空を見上げると、たしかにさっきとは星の位置が違っていて。
交代の時間ということは、夜も最初のクオーターが終わってしまったということ。

「次が日吉なんだけど、調子悪そうだから・・・に一緒に居て貰えないかなって」
「わざわざそんなこと言いに来てくれたんだ、ありがとう」

立ち上がった瞬間、視界が揺れたけれど。
たぶん貧血なだけで。
沈んだ身体は大丈夫、もうすぐ海底に足が届くはず。
眠るのかどうかは分からないけど、萩はそのまま寝床へ向かって。
あたしはゆっくり、火の傍へ、向かう。

さんですか」
「お邪魔しても良い?」
「返事を聞く前に座らないで下さい」
「気のせいじゃない?」

いつもの調子で話すことが出来てるのだろうか。
上擦った声をしてないだろうか。
不自然じゃない表情を、作れてるだろうか。

焚き火に近い爪先が、失ってた体温を徐々に取り戻していく。
若は左手を顎に添えて、その体勢を片時も崩さない。
間が保たない、とてもじゃないけどこれから二時間もは。

「身体、大丈夫?」
「あなたよりはずっとマシだと思いますけど」

「それって暗にさんは病弱可憐で素敵ですね』って言ってる?」

「言ってませんよ。だいたい、可憐はともかく病弱は褒め言葉じゃありません」
「『病弱』って言われるのを好む人も、世の中には腐るほど居りますので」

病弱だと形はどうあれ心配してくれる人を、手に入れられるから。
そういうやり方も全然アリだと思う。
欲しいものは手に入れてこそ。
自分のため以外に、手段なんか選んであげる義理はない。

「病弱だって言われたいんですか」
「んー、あんまりかな。シャレになんないし」

「今にもくたばりそうですもんね」

「あははくたばるってひどいいいかた」
「顔引きつってますよ」
「気のせいじゃない?」

嗚呼駄目だ、やっぱり喋るのやめよう。
こんな風に相手の一言一句を探りながら喋っても、良いことなんかない。
あっくんから貰ったラークは残り五本。
二時間保つか、保たないか・・・保つわけがない。
縋るような思いで箱からまず一本、取り出して。
燐寸、燐寸、燐寸を擦るのも面倒で。
燐寸に比べればあまりに大きい、目の前の炎に煙草の先を近付けた。

そんなふうに、そぞろだったのがいけなかったのかも。

「熱っ」

ふとした弾み、指先が炎に巻かれて。
その拍子に、貴重な煙草が落下して、燃え上がる。

「なにしてるんですか」
「ぼんやりしてた。水とか、あるかな」

人差し指の先はじんじんと痛んで、嫌だな、水ぶくれ出来ちゃう。
面倒臭がらずに燐寸ぐらいちゃっちゃと擦ってしまえば良かったんだ。

「横、川ですよ。待っててください、汲んできますから」
「いいよ。自分で行ってくるから」
「あなたはじっとしててください」





そんな目で見つめられたら、あたしが何も言えなくなってしまうこと。
この子は知ってるんだろうか。





若は溜め息を吐いて、小さな皮水筒を手に立ち上がった。
こっちこそ、溜め息が出てしまう。
やりたいこともはっきりしないまま、全部が空回りして。
助けになるどころか、逆に迷惑かけて。

「手、出して下さい」
「え?ああ、早かったね。ありがと」

すぐ傍に若が居て、あたしの手を取って。
なんてことないシチュエーションなのに、必要以上に緊張する。
生温かい水が不快なかんじで指に絡みつく。

「馬鹿ですね、あなた」
「断定的ですね」
「事実ですから。でも・・・俺の方がもっと馬鹿ですね」





水を布で拭ってくれてた若の手があたしの方に伸びてくるような錯覚を、一瞬。

これが若じゃなければ、迷わず此方から手を伸ばしたけれど。

仮定法は不可能しか表してくれなくて。

『俺の方がもっと馬鹿』?なにそれ、どういうこと?





「もう寝た方が良いですよ」
「いや」
「寝て下さい、お願いします」





どうしてそんなことお願いされてしまうのか。
軽く頭まで下げられて、戸惑うよりもなんだか可笑しくて。
笑っちゃいけないとは思うけど。





「笑うところですか」
「や、たぶん違うん、じゃない?」
さん・・・」

他の人ほど頻繁に、名前を呼んでくれるわけじゃない。

「なんでしょう?」
「いえ」
「?」

情熱的かつ扇情的に見つめ合ってたつもりだったのに。
急に視線を逸らされて、意味が分かんない。
照れてくれてるとかだったらまだしも。
そんな場合でもないから、結局また不安が募るだけ。

不安の募るのって、密室で割れないしゃぼん玉に埋め尽くされてくのに似てる。
見通しは利くようで、利かない。
若は斜め下を向いたまま微動だにしない。

「どしたの?」
「あの・・・」





焦れったいもどかしいこんな若初めて見た。
お陰でどうしていいのか、全然分からないじゃない。
根気よく、半ば思考を放棄して、待つこと数十秒。





「ねえ、若、死にたい?」





どうにでもなってしまえ。
どうなっても良いから、別に嫌われても良いから。

若が死ななければそれでいい。

「死にたい?」
「急になんですか」
「いいから答えてよ」





「・・・俺が死んだら泣いてくれますか、さんは」





「分かんない」
ほんとに分からない。





「悲しすぎて泣けないかもしれない」
「なら、死にたくないです」





そうなの、それが聞きたかったの。
その言葉を聞けば、正気を手放したり出来なくなると思うから。





「あたしも、若と一緒に帰りたい」
そしてすこしだけ抱きしめあって。





夢も見ずに眠った。